スピードペガサス
76戦30勝、2着25回。
主な勝ちクラ 新潟記念4連覇(1986〜89年)、新潟グランプリ(87年)、朱鷺大賞典(87年)。
引退後は種牡馬として期待されたが、残念ながら活躍馬は出せず。
主戦は吉川豊光騎手。  

 
 
「無事、これすなわち名馬なり」。という言葉があるが、定年の10歳まで競走生活をまっとうする馬は数少ない。しかも、それが第一線で活躍し続ける馬となるとなおさらだ。

 80年代後半、県競馬で「天馬」と呼ばれたスピードペガサス。中央未出走のまま新潟へ転入。4歳から10歳まで一線級で走り続け、通算76戦30勝、2着25回の成績を残した。

 一般に、競走馬のピークは4〜6歳といわれるが、同馬の場合は違った。6歳から9歳にかけて新潟記念4連覇という不滅の大記録を達成。9、10歳時には新潟競馬場で1600m(1分38秒5)と1800m(1分52秒7)のレコードタイムをマークしている。同期のセントエリアス(新潟グランプリ2連覇)が衰退していくのをよそに、最後まで競走馬の使命を貫き通した。

 当時、鈴木忠きゅう舎の調教助手だった高橋道雄調教師は、スピードペガサスが5歳になってから担当した。

 −最初の印象を聞かせてください。
 「4歳で入きゅうした時は、ほとんど3歳馬と変わらない体つきでした。どことなく幼さが残っていた。5歳になっても、春は左前脚の球節を悪くして、4か月ほどレースに使えなかったし、本格化するまでには時間がかかりました。ようやく馬体ができてきたのは5歳の暮れくらいから。でも、手間取った分だけ、翌年以降は走ってくれました」。

 −6歳からは、本当に素晴らしいレースを見せてくれました。普段の調整方法にも秘訣があったのでは?
 「気性的におとなしく、調整もしやすかったですね。もともと脚部が悪かった馬だし、けいこでは長めをじっくりと乗ることだけに専念していました。常に馬場の大外を通って、1周(1000m)を1ハロン15秒ペースで回りましたよ。ふつうの馬ならゴール前でバテるところですが、上がりもしっかりしていた。強い追い切りはこの馬にとって必要なかったですね。十分に心肺機能を養えたと思います」。

 −苦労したことは?
 「6歳の暮れになると、左だけではなく右前脚の球節も悪くなってしまって。レースではどんな状態でも全力を出し切る馬でしたから、体調の回復が遅かったですね。体のわりにカイバ食いも細かったし…。1か月くらいレース間隔をあけないと使えませんでした。それと、夏負けする馬で、暑さには極端に弱かった。確かにコーナーワークはヘタだったが、夏に開催が集中する三条で重賞を勝てなかったのもうなずけます」。

 −印象に残るレースと言えば。
 「7歳で勝った新潟グランプリ(87年)もうれしかったが、やはり10歳の新潟グランプリで2着に入った時は格別でしたね。76戦もして、7割以上の連対率を残してくれたし、多くのファンに貢献できたと思います。ただ、種牡馬に上がってからは産駒に恵まれないまま、数年前に死亡したそうです。私自身、調教師になって1年目。あれだけの名馬にはこの先、出会えるかどうかわかりませんが、スタッフとともに頑張って、いい馬作りをしていきたい。

 ※高橋道雄調教師は、金沢への移籍が決まりました。