アラブの名門として知られた長谷川きゅう舎。昨年(1994年)、長谷川昭夫調教師が引退するまで、テツノボルト、アーリーフツトなど、多くのスターホースを生み出した。その中でも、ひと際威光を放ったのが、県競馬のアラブ史上最強馬とも言われたカズノフアストだ。
生涯成績48戦26勝。晩年、南関東に転戦してからは、21戦4勝と奮わなかったが、新潟では3歳の秋から6歳春にかけて北日本アラブ優駿(水沢)、銀蹄賞など18連勝を記録。27戦22勝をマークした。
高橋秀男きゅう務員は、キャリア3年目にしてこの歴史的名馬と出会った。
−初めて見た時の印象は?
「400キロそこそこの小柄な馬でね。1200mまでの短距離戦なら何とか走ってくれるだろうと思いましたが、それ以上の距離では自信がなかった。先生(長谷川元調教師)も、それほど大きな期待をかけていなかったのでしょうから、キャリアの浅い私が担当できたのだと思います。でも、首回りが太くて、お尻も大きかったせいか、けいこを積んでいくうちに筋肉がつき、見る見るうちにたくましくなっていた。実際にデビューするときは、460キロにまで馬体重がふえていましたからね。その成長力は、やはり並みの馬ではないなと思いました」。
最も印象に残ったレースは?
「水沢の北日本アラブ優駿ですね。勝てると思っていましたが、あれほどの大差(7馬身)になるとは。馬主さんもバスをチャーターして応援に出掛けたかいがあったというものですよ。でも、本当にタフでしたね。水沢に到着した日のことなんですが、私が地元のきゅう務員さんにお茶をごちそうになっていると、なにやら馬房が騒がしい。急いで駆けつけてみると、馬房を破って、今にも馬屋から飛び出そうとしていました。8時間の輸送のあとにですよ。その体力は半端じゃありませんでした」。
−その後も勝ち続けて18連勝。もう少し連勝を伸ばせたそうですが。
「5歳の時に砂山賞で60キロを背負った勝ったあとに、ひどい夏負けにかかってしまいました。けいこを終えてから、なかなか息が回復しないんですよ。心肺機能がかなり弱っていたみたいですね。そのうち、熱を出し始めてしまって。仕方がないからアイスノンを馬の額に当てて冷やしましたよ。しばらくは獣医さんと一緒に夜もつきっきりでした。結局、回復に時間がかかりそうだったので、北海道の牧場で立て直すことになりました」。
復帰したのはいつ頃ですか。
「10カ月休養して、レースを使ったのは6歳の春。2連勝したあとに2着に敗れて連勝はストップしましたが、やはり4、5歳時の勢いはありませんでしたね。気性的にもおとなしくなった感じで。夏は前年のことがあったので、すぐに牧場に帰しました。4カ月後に戻ってきましたが、馬体を見て驚きましたよ。ガリガリにやせ細っていて。せっかくの筋肉がそぎ落とされていました。そして、復帰初戦は8着と大敗。レースから引き上げてくる姿は、どことなく寂しそうでした。一つの時代が終わった、そんな感じでした」。
カズノフアストは南関東に転戦後、1991年に種牡馬となったが、活躍馬を出せなかった。
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