名伯楽としても知られる穂保精彦きゅう務員。馬を見る眼力には定評があり、佐藤忠雄調教師から全幅の信頼を置かれている。きゅう務員生活30年の間に、出会った名馬は多い。金杯(新潟グランプリの前身)を63キロのハンディで制したダイニマサホマレ、1960年代後半の怪物、キングハローなど、いずれも世代を代表する馬ばかり。その中でも思い入れの深かったのが「新潟の貴公子」と呼ばれたイチコウハヤタケだ。
3歳から10歳まで一線級で走り続け、通算78戦34勝、2着18回。4歳馬として初めて新潟グランプリ(83年)を制するなど、重賞制覇は14回を数えた。四白流星の派手な馬体をいっぱいに使って走る姿は、、まさに「貴公子」然たるものだった。
同馬が引退するときに、穂保きゅう務員はこみ上げる思いを詩につづっている。
北の果てに生まれ
草原を駆け巡りて育ちし
物言えぬ君その瞳の輝きに
我が心の映りし日々よ
共に歩みし長き栄光の日々なれど
物言えぬ老いた君哀れなり
ああ 今も駆け巡りしか
いずこの空で
−一幸早猛(イチコウハヤタケ)に捧ぐ−
−初めて出会ったころの印象を聞かせてください。
「父(ホープフリーオン)よりも、母(パリスパイク)系の血が強く出ているな、と感じました。顔から体型まで母の父ミラルゴとそっくりなんですから。それと、これは実際にけいこをするようになってからですが、全身がバネの固まりという感じで、フットワークがすばらしかった。重心も低くてね。おそらく芝で使ってもかなり活躍したんじゃないですか」。
−最も印象に残ったレースといえば
「水沢で行われた東北ダービーですね。長距離輸送がこたえて状態は最悪だった。熱もあったしね。それで、2着馬を5馬身も引き離して勝ったのだから、スピードはケタ違いでしたよ。この一戦が出世の足掛かりになったと思う。あと、4歳で勝った新潟グランプリです。この時はどんな相手と戦っても負ける気がしなかった。予想よりきわどい勝負(半馬身差)になったのは誤算だったけどね」。
−苦労したことは
「丈夫な馬だったし、故障に泣くことはなかった。ただ、3歳時はゲートが悪くなったことがありました。レースでゲート入りする際に、隣の馬が暴れた拍子に頭をたたかれてしまって…。でも、4歳になってからは自然と不安もなくなりました」。
−現役を引退後は
「ハヤタケは日本一の馬喰(ばくろう=馬を売買・周旋する人)といわれる佐藤伝ニさんの目に止まって競走馬になりましたが、その方のお兄さんが経営する福島の育成所で、乗馬用の馬としてお世話になっています。これからも元気でいてほしいですね」。
−今後の抱負は。
「ハヤタケをはじめ、いい馬を手掛けることができたのは先生(佐藤忠雄師)のおかげです。私に対する理解と、適切な指示があったからだと思います。競馬は血のスポーツ。競走馬には持って生まれた能力の限界があります。調教師が能力に見合ったレースを選定し、私たちが全能力を発揮できるように仕上げていく。そのチームワークを大切にしていきたい。そして、唯一、勝っていない新潟ダービーで表彰台に登りたいね」。
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