かつて県競馬でも、中央に負けない個性派が躍動していた。ファンを魅了し、愛された馬、いわば、「オヤジ達のアイドルホース」。その代表がアジヤストメントだ。4歳から10歳まで、一線級を走り続け、全盛時は東北サラブレッド大賞典(1984年)を優勝。当時の通算勝利数で日本タイ記録の36勝をマークした。
有田昭一きゅう務員は、同馬のデビューから引退までの7年間、オヤジ達の夢を乗せて、ともに駆け抜けた。「アイツが息子と娘の養育費を稼いだもの」と笑う有田きゅう務員だが、栄光への道のりは決して楽ではなかった。
−アジヤストメントという馬名には、「修理する」、「正しくする」といった意味があるそうですが、向山調教師が牧場で偶然に出会わなかったら、廃馬になっていたほどの故障馬だったそうですが。
「入きゅう当初はヒョロヒョロやせていてヒ弱な感じだったし、おまけに脚元に骨瘤があったりで…。見た目はよくなかったですね。でも、気かん坊で、元気だけはよかった。ただ、注射は必要以上に怖がっていましたね。5歳になって落ち着きが出るまで苦労しました」。
−そして4歳10月には待望のデビューを迎えましたが、2連勝したあと、左ヒザを骨折してしまいました。
「さあ、これからという時だったのでショックでした。その後は7カ月半ほど休養し、5歳の6月に復帰。でも、1度痛めた部分は再発しやすいし、常にヒザを暖めるように心掛けました。その甲斐があってか、6歳以降はヒザの不安から解消されて、元気に走ってくれました」。
−7歳の時には、新潟の馬がそれまで5回挑んで1度も勝てなかった東北サラブレッド大賞典を制しています。これは重賞10勝分に値しそうですが。
「かつては有馬記念にも出走したハシクランツをはじめ、その時のメンバーはすごかったですからね。ほかのレースにはない興奮を味わせてもらいました」。
−勝つにしても大差勝ちはなく、常に接戦でした。かなりの勝負根性を持っていたと思いますが、気性面はどうでした。
「気合を表に出すタイプで、パドックではいつも二人引きでした。もちろん、けいこでもうるさい方でしたが、洗い場に入ると不思議とおとなしくなるんです。それに、決して人を蹴飛ばすようなことはしなかった。面白いことには、8歳頃になると、カイバやけいこの時間も自分なりに決めていたようです。けいこを始めてある程度の時間になると、押せども引けどもそれ以上はお断りといった感じで馬房に向かってしまう。自分自身で調整をするわけですから、馬体重の変動が少なかった。手がかからない馬でしたね。レースで大差勝ちがないのは、常に相手なりに走っていたためだと思います。相手が弱ければそれなりに、強ければ力いっぱいに、という感じで。レースのセンスというか、競馬そのものを知っていた気がします。こんな馬とはもう巡り会えないでしょうね」。
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