競馬の舞台裏の主役といわれるきゅう務員。どんな名馬であれ、彼らの存在をなくしては語れない。今回から「うま屋のあるじ」と題して、裏方に徹するきゅう務員たちにスポットを当て、思い出の馬を語ってもらった。
第1回は河内きゅう舎の酒井正男きゅう務員。今やブレイヴェストローマンの後継種牡馬ともいわれるグレートローマンを手掛けた敏腕きゅう務員だ。
グレートローマンは80年代前半に活躍した。新潟では2歳から3歳にかけ、新潟ジュニアカップ、新潟ダービーなど10連勝を記録。東海に転戦してさらに強くなり、東海大賞典、東海菊花賞など、主要重賞レースを勝ちまくった。この世代は歴史的な名馬が多く、中央ではシンボリルドルフ、地方ではカウンテスアップなどがいる。
−グレートローマンを初めて見た印象は?
「とにかくアカ抜けていましたね。四肢のバランスがよく、均整の取れた体つきで。ひと目で『これは走る』と直感しました。それもそのはずで、初めは中央入りする予定だったんですが、2歳の時に牧場で球節を痛めたらしくて…。
でも、あとから考えると、それがかえってよかったんじゃないですか」。
−と、言いますと?
「東海に転戦してからは芝のレースにも出走したのですが、ダートでの強さがまるでウソのように見せ場さえ作れなかったそうです。やはりブレイヴェストローマンの血でしょうか」。
−デビュー戦は難なくクリアしましたが、2戦目から思わぬ敗戦が待っていました。
「ちょっと原因がわからないんですが、2戦目からいきなりゲート入りが悪くなったんです。それでカイバを控えたら3回連続で3着と、今度は負け癖がついてしまった。ただ、3戦目から返し馬をする前に必ず1度ゲートを通すようにはしていました。それを繰り返すうちに、ゲート入りもスムーズにいくようになりました。でも、いつまた悪くなるかわからないし、レースそのものよりゲート入りが心配でした」。
−そのほかに苦労したことは?
「とにかく蹄鉄の減りが早かったですね。普通の馬は20日くらいで履きかえるんですが、それが10日ともたなくてね。あまりひんぱんに打ちかえると、蹄がくぎ穴だらけになるんですよ。蹄にぬる軟膏は欠かせませんでした」。
−けいこではあまりよく見せない実戦タイプだったそうですが。
「正直、あまり歩様のいい馬ではなくて、けいこでは背中に乗っていてもすごさは感じられなかった。それが、いざレースとなると、驚くほど変わるんです。主戦の五十嵐騎手もそう言っていましたね」。
−3歳の暮れに東海地方への転戦が決まった時には猛反対したそうですが。
「馬主さんの意向なので仕方がないんですが、私ちしては生涯に1度会えるかどうかの馬でしたからね。先生(河内師)に進言したのですが、聞き入れてもらえなくて…。東海へ行ったばかりのころは、先生としばらく口をききませんでした。
−その後は転戦先の東海地区でも大活躍し、ついには種牡馬入りしました。2歳時から育て上げたきゅう務員としては喜びも大きいでしょう。
「きゅう務員としてはこれ以上の幸せはないですね。生涯一きゅう務員を通すつもりですが、できればグレートローマンの子供で新潟グランプリを取ってみたいですね」。
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